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那覇地方裁判所 昭和50年(ワ)141号 判決

原告 新崎直子

右法定代理人親権者父 新崎俊夫

同母 新崎智恵子

〈ほか二名〉

右原告ら訴訟代理人弁護士 本永寛昭

同 中野清光

被告 日本赤十字社

右代表者社長 東龍太郎

右訴訟代理人弁護士 饗庭忠男

同 小堺堅吾

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

(請求の趣旨)

「一 被告は、原告新崎直子に対し金二八七七万円、原告新崎俊夫及び同新崎智恵子に対し各金五五〇万円並びに原告新崎直子に対する内金二六一七万円、同新崎俊夫及び同新崎智恵子に対する各内金五〇〇万円について昭和五〇年五月三日から、原告新崎直子に対する内金二六〇万円、同新崎俊夫及び同新崎智恵子に対する各内金五〇万円について第一審判決送達の翌日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。二 訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決。

(請求の趣旨に対する答弁)

主文と同旨の判決。

《以下事実省略》

理由

一  原告直子の出生及び失明と被告病院入院中の経過

1  以下の事実は、当事者間に争いがない。(以下、本項の日時は、いずれも昭和四五年であるから、その記載を省略する。)

(一)  原告直子は、二月一一日、横浜市にある加藤産婦人科病院において、原告俊夫及び同智恵子の二女として出生したが、在胎期間(母親の胎内にあった期間)二八週の早産児で、出生時の体重が九八〇グラムであったため、翌一二日午前一一時二〇分、被告病院に入院し、保育器内に収容されて看護保育を受け、五月一七日、退院したが、原告直子は、本症に罹患し、八月末までには、両眼を失明するに至った。

(二)  原告直子の出生予定日は、五月八日であったが、その母である原告智恵子が切迫流産のため二月八日から入院中、同一一日午後一〇時一〇分、右加藤病院で出生した。出産は、骨盤位分娩で、出生時に仮死奇形はなかった。母は、経産婦で、人工妊娠中絶歴及び満期産歴を有していた。

原告直子は、出産後、加藤病院において約二〇分間酸素投与を受けた。

(三)  被告病院入院時、原告直子は、体重九八〇グラム、体温三二・八度、心音整で、呼吸異常やチアノーゼはなかったが、全身浮腫著明であったため、保育器に収容され、温度三二度、湿度一〇〇パーセントに保たれた。また、原告直子は、入院当日午後から、足底部に軽度のチアノーゼ及び腹部膨満が認められ、脈搏は一分間一二八であった。

(四)  原告直子は、入院当初四日間の飢餓期間をおかれ、二月一五日から強制栄養カテーテルを使用して、同日は五パーセントブドウ糖二ミリリットルを投与され、同一六日からはミルク栄養に切り換えられ、同二四日以降は時々母乳栄養も実施され、また、四月一八日以降はカテーテルを除去して直接哺乳が行われた。

(五)  原告直子の体重は、二月一一日(生下時)九八〇グラム、同一六日八三五グラム、三月二日八七〇グラム、同一六日一八〇グラム、四月六日一五九〇グラム、同二三日二〇六五グラム、五月五日二四〇〇グラム、同一七日(退院時)二八二〇グラムであった。

2  《証拠省略》によれば、次のとおり認められ、右認定に反する証拠はない(当事者双方から提出された書証については、いずれも、その成立(写については原本の存在及び成立)につき、当事者間に争いがないので、以下理由中においては、書証の成立に関する判断、及び、写については、写である旨は、すべてその記載を省略する。)。

(一)  原告直子の被告病院入院中の呼吸の状態は、二月一四日一三時四八回(一分間の回数。以下同じ。)、同一五日一一時三〇分五六回で規則的、同一八時六〇回、同一六日六時六六回で整、同一七日五時五四回、同一八日四時六〇回で規則的、同二〇日一三時三〇分四八回、同二一日一七時四〇分五〇回で浅表不規則、同二五日八時二八回やや規則的、同二八日一三時三〇分五八回荒々しい、三月三日一五時三〇分五二回やや不規則、同四日七〇回促迫気味だが規則的、同日一三時三〇分六四回やや促迫気味、四月一四日四六回腹式にて努力呼吸気味で鼻翼呼吸がみられる、同二三日一三時五九回促迫気味、同日一九時四五回であった。

また、同原告は、二月二四日、全身ややチアノーゼ気味であり、同二八日、口唇部に軽度のチアノーゼ、及び、四月一三日、強いチアノーゼがそれぞれみられ、同一七日、皮膚がチアノーゼ気味であり、同二一日、口周囲にわずかにチアノーゼがみられた。

(二)  原告直子に投与された酸素の量の推移及び酸素投与に関してなされた医師の指示についてみると、二月一二日から同二六日まで五リットル(毎分。以下同じ。)、同二七日から三月二四日まで四リットル、同日から同二八日まで三リットル投与され、その間、同二七日、看護婦より指示を求められて、医師は、徐々に量を下げるよう指示したが、他に特別の指示はなく、同二八日から四月一〇日まで二リットル投与され、その間、四月一日、医師は、二リットルの投与の続行を指示し、同一〇日から同二二日まで(同一四日の一部を除く。)一・五リットル投与され、その間、同一四日、努力呼吸(鼻翼呼吸)がみられたため、三リットルに増量され、同一六日、医師は、貧血が強いため、しばらく一・五リットルの投与の続行を指示し、同二一日、看護婦より、体重増加を理由に酸素投与の中止を具申したのに対し、医師は、貧血を理由に、酸素投与の中止を指示しないで、投与量を一・五リットルから一リットルに減ずべき旨の指示をなしたが、チアノーゼがみられたため、一・五リットル投与を続行することとし、同二二日から五月一日まで(四月二八、二九日の一部を除く。)一リットル投与され、その間、四月二八日、医師の指示により〇・五リットルに減じられたが、翌二九日、他の医師は、原告直子の出生時体重が九八〇グラムと特別少なく、また、貧血もみられたため、血液検査の結果を見て決めることとして、酸素はしばらく一分間一リットル投与を続行するように指示し、同三〇日、右指示が確認され、五月一日、酸素投与中止の指示がなされるに至った。

(三)  被告病院においては、医師の指示により、保育器内の酸素濃度は三〇パーセント以上四〇パーセント以下に保ち、一日に頻回ベックマン氏濃度計によって測定すべきものとされ、看護日誌には、午後四時ころの看護婦交替時の測定値が記入されていたが、これによれば、原告直子が収容されていた保育器内の酸素濃度は、二月一二日から同一五日まで三二から三八パーセント(毎分五リットル投与。以下投与量のみ示す。)、同一六日から三月五日まで記録がなく、同六日から同二四日まで二八から四〇パーセント(四リットル)、同日から同二八日まで二九から三四パーセント(三リットル)、同日から四月九日まで二八から三八パーセント(二リットル)、同一〇日四四パーセント(二リットル)及び三五パーセント(一・五リットル)、同一一日から同二二日まで(同一四日の一部を除く。)二七から三六パーセント(一・五リットル)、同一四日四六パーセント(三リットル)、同二二日から五月一日まで二八から三五パーセント(一リットル)であった。

また、被告病院においては、医師の指示により、看護婦は、右のとおり、保育器内の酸素濃度を三〇パーセントから四〇パーセントに保持し、医師の回診時に児の容態を報告するほか、児に異常があれば直ちに医師に連絡すべきものとされていたが、原告直子については、前記(二)において認定したほか、酸素濃度に関して医師の指示を受けたこと又はこれを受けるべき事実が起きたことについては、看護日誌に記録がない。

そして、保育器には、酸素投与のための開閉口及び空気交換口があるほか、酸素投与装置の電源が万一故障しても保育器内が無酸素状態にならないようにするための隙間が設けられ、保育器には、器毎に多少の個性があり、また、おむつの交換、哺乳、種々の検査、治療等のために保育器の操作窓が開閉されることなどのため、保育器内の酸素濃度と保育器に投与する酸素量との間には、必ずしも厳密な対応関係はなく、実験によっても、被告病院で使用していたのと同一機種の保育器については、当該保育器の使用説明書記載のとおりの投与酸素量に相応する濃度は得られず、投与酸素量を増加しても、四〇パーセント以上の濃度は、ほとんど得られないのであり、そのため、被告病院においては、昭和四五年より以前から、四〇パーセント程度以上の酸素濃度を必要とする場合には、未熟児の口辺にマスクを当てて直接酸素を供給するという方法を採用していた。

(四)  原告直子は、四月一日ころから、極めて強い貧血症状がみられ、新生児の場合、通常、一五グラム以上なければならない血色素量(一〇〇ミリリットル中。以下同じ。)が、同日、九・〇グラム、同六日七・五グラムと低いため、同七日及び八日、鉄剤(インクレミンシロップ)を投与されたが、血色素量は、同一〇日、八・〇グラムで貧血が回復せず、同一三日、一八ミリリットルの骨髄輸血を実施された。しかし、血色素量は、同一四日七・一グラム、同二一日八・五グラムと低く、なお、強い貧血症状にあるため、更に、同二三日、一五ミリリットルの骨髄輸血を実施され、血色素量が同二八日九・〇グラム、五月一一日一〇・三グラムと増加した。(血色素量の変化については、原告らも争わない。)

(五)  原告直子は、五月二日、貧血が認められたものの、保育器より出され、同一七日、顔色良好、呼吸平穏、心音整、腹部及び中枢神経系に異常が認められず、ペレー、モロー、対光及び対音等の反射もみられ、頭血腫、負荷性変形、出血傾向及び皮膚性器異常もなく、被告病院を退院した。(この点も、原告らは争ってはいない。)

二  原告直子の失明の原因

原告らは、原告直子の本症罹患及びこれによる失明は、被告病院における酸素の投与に起因するものであると主張するので検討する。

1  《証拠省略》を綜合すると、次のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(一)  未熟児とは、出生時の体重が二五〇〇グラム以下の新生児をいい、特に、生下時体重一五〇〇ないし一三〇〇グラム以下のものは、極小未熟児と呼ばれ、未熟性が著しい。

未熟児のうちでも、在胎期間の短いものは、それが短いほど、満期産児(在胎期間四〇週)に比べ、生下時の体重が小さいだけでなく、肺、呼吸中枢等の臓器をはじめとする生理機能の発達が未熟で、胎外での生活に適応できる状態にまでなっていないことが多く、肺の機能が未熟であるために呼吸障害に陥り、酸素不足となって頭蓋内出血を起こし、死亡し、又は脳性麻痺になり易く、また、肝臓が未熟なために黄疸が長引き、核黄疸にまでなって、脳障害を起こし易いとされている。

ちなみに、昭和四三年から同四六年までの間に日赤産院未熟児センターに収容された未熟児についてみると、在胎二七ないし二八週、出生時体重一四〇〇グラム以下の未熟児の生育率は十数パーセントである。

(二)  本症の研究は、アメリカのテリーが昭和一七年に水晶体の後部に黄白色を示す眼の異常を後水晶体線維増殖症(RLF)と命名し、水晶体血管膜を含む胎生血管の遺残、過形成によるものとしたのを先駆とし、その後、米国における保育器による保育の普及に伴い、本症が急激に増加し、一九五〇年から一九五七年(昭和二五年から同三二年)までの間には、乳児失明の最大の原因として注目され、RLF対策委員会が設置され、大がかりな臨床的、実験的研究が行われ、本症はその八〇パーセントが未熟児に発生すること、酸素療法と深い関係を持つことが明らかにされた。また、その臨床経過が活動期、回復期、瘢痕期に分かれること、及び、RLFは、本症瘢痕期Ⅳ度ないしⅤ度の状態に当たることが明らかにされ、RLFの名称は適当でないとされるようになり、「Retinopathy of Pre-maturity」という名称が提唱され、日本においては、その訳語として、昭和四〇年ころ、植村恭夫が児の未熟性に起因する網膜症という意味で「未熟児網膜症」と呼ぶことを提唱して以来、その用語が定着している。

(三)  本症の臨床経過は、昭和三〇年、オーエンスによって活動期、寛解期、瘢痕期に分ける分類が発表され、活動期及び瘢痕期は、更に、各五段階に分類されている。即ち、活動期は、Ⅰ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)に、瘢痕期は、ⅠないしⅤ度にそれぞれ分けられ、瘢痕期Ⅳ度又はⅤ度では、網膜は剥離して、ほぼ、全盲の状態となり、RLFは、この段階に当たる病変であるとされている。

右分類法は、広く用いられているが、その後の研究者によって、独自の分類法も発表されており、また、本症は、右のような段階的な経過を辿るものばかりではなく、急激に網膜剥離にまで進行するラッシュタイプ又は激症型と呼ばれる類型のものがあり、出生時体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児に多発することが知られるようになった。

更に、本症の臨床経過については、厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班により、昭和五〇年、「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」と題する報告書が発表され、これによれば、本症は、三種類の類型に分類される。即ち、

Ⅰ型は、目の網膜の耳側周辺部に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内滲出及び増殖性変化を示し、最後に牽引性剥離と、段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるもので、自然治癒傾向が強い。これに対し、Ⅱ型は、主として極小低出生体重児に発症し、未熟性の強い眼におこり、初発症状は、血管新生が後極寄りに起こり、耳側ばかりでなく鼻側にも見られることがあり、無血管領域は広く、その領域は、ヘイジ・メディア(眼球の透光体の混濁状態)のために、不明瞭であることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著名で滲出性変化も強く、Ⅰ型と異なり、段階的経過を辿ることも少なく、比較的急速に網膜剥離にまで進行する。自然治癒傾向が少なく、予後不良のものである。また、混合型は、Ⅰ型とⅡ型の混合的経過、性質を有する種類で、極めて少数の発生がみられるものである。

(四)  本症は、その症例の九八パーセントが未熱児に発生し、中でも生下時の体重一六〇〇グラム以下、在胎週数三二週以下のものに圧倒的に多く、しかも、不可逆性病変となってあらわれる。

また、本症は、反復する無呼吸発作に対し、酸素療法が行われたもの、呼吸窮迫症候群を伴うもの及び重い貧血症状を呈するものに多く発生し、酸素投与との関係では、その期間の長いものほど、本症発生の率が高い。

本症は、ヘイジ・メディアが存在したものに発生率が高く、ヘイジ・メディアは、また、出生児の体重が低い児に高率に存在するが、これは、眼球の未熟性の徴候を示すものであり、結局、出生時体重の低い児ほど、眼球、殊に、網膜血管の未熟性も強く、全身的に無呼吸発作などの異常状態が強く、したがって、酸素投与の期間も長期にわたることとなり、本症が発生し易いと指摘されている。

本症と酸素の濃度との関係については、保育器内の酸素濃度四〇パーセント以下と六〇パーセント以上とでは、六〇パーセント以上の濃度の酸素が投与された場合の方が四〇パーセント以下の場合より、本症発生率が高いが、現在では、本症の発生には、保育器内の酸素濃度より、むしろ、児の動脈血中の酸素分圧が関係を有すると考えられており、これが一五〇ミリメートル水銀柱を超えると本症の発生率が高いとされている。

本症は、その発生の時期については、生後三週間ないし一ヶ月ころから三ヶ月の間に発生することが多いとされている。

本症は、また、オーエンスの分類による活動期Ⅲ期以前のものについては、ごく軽度の瘢痕を残すものを含めて、自然寛解するものが多いとされ、キンゼイは、活動期Ⅰ期の九〇パーセント、Ⅱ期の八七パーセント、Ⅲ期の四五パーセントまでは正常に回復すると報告し、オーエンスは、活動期の三分の一はⅠ期、四分の一はⅡ期で進行を停止すると指摘し、植村恭夫らの報告では、五〇ないし六〇パーセントの自然治癒を見たとされ、馬嶋昭生は、七五ないし八〇パーセントは自然寛解すると指摘している。

(五)  本症の原因については、保育器に供給される酸素が関係する点には、ほとんど異論をみず、酸素投与による未熟児の網膜血管の相対的低酸素によるとする説と濃度の高い酸素による中毒が原因であるとする説が主張されたが、現在では、後者の説が多く主張されており、これによれば、本症は、次のような経過をたどるとされている。即ち、

人の網膜は、胎生四ヶ月までは、無血管であり、四ヶ月以降に硝子体血管より網膜内に血管が発達し、胎生六ないし七ヶ月において、血管発達は最も活発であり、胎生八ヶ月では、網膜鼻側の血管は周辺まで発達しているが、耳側では鋸歯状縁に達していない。したがって、未熟児では、在胎週数の短いものほど、網膜血管の未熟度は強く、鋸歯状縁との間の無血管帯も広い。また、この血管の発達度は、個体差が強く、成熟児でも、まだ発達途上のものもある。そして、在胎七又は八ヶ月で出生すると、網膜の前方は無血管の状態にあり、網膜血管は、生後に、胎内とは全く異なる環境下で発達することになる。未熟な網膜血管ほど酸素に過敏であり、動脈血中内の酸素分圧が上昇すると、一次的効果として、発育途上の未熟な網膜血管は、収縮し、先端部が閉塞する。しかし、閉塞部よりも周辺の無血管領域の網膜は、この時期には、酸素分圧が上昇しているため、脈絡膜からの酸素の散布を受けている。ついで、右閉塞による酸素供給の停止によって、二次的効果として、無血管帯の網膜は、無酸素状態となり、異常な血管新生、硝子体内への血管侵入、後極部血管の怒張、蛇行が起こり、遂には、網膜剥離まで引き起こすに至ることがある。また、動脈血中の酸素分圧の上昇に反応するのは、発育途上にある未熟な網膜血管であり、しかも、個体差があり、空気中の酸素(濃度約二〇パーセント)にすら反応するものもあれば、保育器内の環境酸素濃度が六〇パーセント以上にならないと影響を受けないものもある。

以上のように、本症は、未熟な網膜血管を素因とし、酸素の作用で発生及びその進行が説明されるが、酸素投与を全く受けない未熟児や成熟児に発生した実例も報告されており、酸素以外に光の刺激など、直接又は間接的に本症の発生、進行に関与する因子の存在を否定できないとされ、本症の発生原因及び発生機序は、今日においても、医学的に、完全には解明されたとはいえない状態にあるとされている。

2  前項において認定したとおり、原告直子は、在胎二八週の早産児で、生下時体重九八〇グラムであり、いわゆる極小未熟児とされるもので、被告病院における原告直子の保育経過、特に、酸素投与の経過及び右1で認定した本症に関する医学的な理解を綜合すると、原告直子の本症への罹患及びこれによる失明は、原告直子の網膜の未熟性が素因となり、被告病院において、保育器の中で保育されていた間に投与された酸素の作用が誘因となって生じた蓋然性が高いというべく、したがって、原告直子の失明と被告病院における同原告に対する酸素の投与との間に因果関係の存在を推認し得るというべきである。

三  原告直子に対する酸素投与に関する過失

原告らは、原告直子の失明は、被告病院における原告直子に対する酸素投与に過失があったことによると主張し、被告は、この点を争うので、右過失の有無について検討する。

1  未熟児の保育について

《証拠省略》によれば、次のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(一)  未熟児は、生理機能全般の発育が未熟であり、肺機能が未発達であるために無呼吸発作、呼吸窮迫症候群(RDS)、高ビリルビン血症などに陥り易く、このため、死亡に至り、又は生存し得ても、脳障害を残すことが多く、このような危険を未然に防止するため、生下児体重二〇〇〇グラム以下の未熟児は、保育器に収容され、生育に適した温度及び湿度を維持され、酸素を投与されることが極めて多い。

また、すべての呼吸障害に対して酸素が必要であり、酸素不足の徴ひょうであるチアノーゼのある児には、死亡の危険及び救命し得た場合の永久的な脳障害の危険があるので、これを避けるため、酸素を十分に与えることが必要であるとされるが、逆に、高濃度の酸素投与が長期にわたると本症が発生する危険があるとされる。特に、出生時、一五〇〇グラム以下の低体重未熟児は、呼吸中枢が未熟で、呼吸不全があらわれ、無呼吸発作やチアノーゼを伴う場合や呼吸窮迫症がみられることが多く、生命の危険を救うため、保育器内での酸素の供給が不可欠であるとされ、かつ、その期間も長期に及び易く、したがって本症の発生する危険も大きいと指摘されている。

右のような事情から、酸素の投与は、未熟児にとって、死亡又は脳性麻痺の危険と失明の危険とを二律背反の関係に置くものであると指摘されている。

(二)  未熟児の保育のための酸素投与の歴史をみると、米国において、保育器による保育が普及した当初は、六〇ないし八五パーセントに及ぶ高濃度の酸素が投与され、RLFが急激に増加し、研究の結果、酸素の過剰投与によるものであることが指摘され、昭和二九年ころから、未熟児に対する酸素投与が厳重に制限されることとなり、RLFの発生が劇的に減少したが、その後、昭和三五年、アベリーとオッペンハイマーによって、右のような厳重な酸素投与の制限の下では、酸素を自由に使用していたころに比べて、未熟児、特に、呼吸障害のある児の死亡率が上昇したことが指摘され、また、同三八年マクドナルドによって、酸素投与期間一〇日以内では、RLFの発生は少ないが、脳性麻痺の発生が高率となり、逆に、一〇日以上では、脳性麻痺の発生は減少してRLFの発生が増大すると指摘されるなどしたため、呼吸障害のある未熟児に対する高濃度の酸素療法が行われるようになり、RLFの発生が再び問題になるようになった。

我が国においては、米国において、酸素投与の制限がなされるようになった後、未熟児の保育施設が普及したため、米国において見られたような、RLFの爆発的な発生を見ることがなく、そのため、かえって、小児科、産科のみならず眼科の医師にも、RLFは、過去の疾患と考えられるに至り、関心ももたれなかった。しかしながら、未熟児の保育が進み、出生時体重一五〇〇グラム以下の児の生存率が上昇し、また、呼吸障害症候群に対し、高濃度の酸素療法が不可欠とされるのと相まって、我が国においても、RLFないし本症の発生が増加して来た。

(三)  原告直子の出生時ころまでに、我が国において、酸素投与の量、期間、適応等に関して発表された論文等によれば、以下のとおり、主張されている。即ち、

未熟児は、肺の未熟に加えて、種々の原因による呼吸困難、無酸素症が起こりやすいので、必要にして充分な酸素を投与することが大切であり、酸素の濃度は、三〇ないし四〇パーセント以下、高くても四五パーセント以下に保ち、少なくとも一日三回、濃度を計る必要があるが、チアノーゼがみられるなど必要がある場合は、より高い濃度(場合により一〇〇パーセント近く。)の酸素を投与すべきである。酸素投与の期間は必要最少限にし、あまり長期にわたり、連続して用いないようにすべきであり、酸素投与を中止するに当たっては、徐々に濃度を下げるべきである。そして、酸素を投与すべき適応に関し、チアノーゼや呼吸困難を示さない児にも、酸素投与をすべきかどうかについては、これらがあるときのみに限るべきであるとする考え方と無酸素性脳障害の重大さにかんがみ、未熟児には、原則として常例的に酸素を投与すべきであるとする考え方がある。本症は、濃度四〇パーセント以下の酸素を比較的短期間投与された児について、発生した例があり、本症の発生を避け、かつ、無酸素症による脳障害の発生を避けることができる酸素の濃度、投与期間については、定説がない。本症の発生は、保育器内の酸素濃度ではなく、未熟児の動脈血中の酸素分圧の急激な変化によりもたらされるものであり、右分圧の値が六〇ないし八〇ミリメートル水銀柱であれば、本症は発生しないとされ、動脈血中内の酸素分圧は、児の状態によって変化することが多いので、頻回に測定する必要があるが、そのために動脈血をたびたび採取することは、未熟児に危険を与えるので困難である。

2  被告病院における未熟児保育の実情被告病院における原告直子の保育の経過は、前記第一項において認定したとおりであり、更に、《証拠省略》によれば、次のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(一)  被告病院産婦人科部長岸野貢医師は、原告直子が出生した昭和四五年二月当時、未熟児について、次のように理解し、保育を実施していた。即ち、

未熟児は低酸素症又は無酸素症に陥り、低酸素性頭蓋内出血を起こし易く、特に、極小未熟児は呼吸障害症候群、頭蓋内出血、脳性麻痺などの合併症のため、死亡率が著しく高く、その原因は、極小未熟児の肺の機能が未熟で、肺において血中の炭酸ガスと体外から採り入れた酸素との交換が十分行われず、生育に不可欠の酸素が体内、特に脳にまで行きわたらないことにある。したがって、それほど手を加えなくとも生育するとも言い得る生下時体重二〇〇〇グラム以上の未熟児とは異なり、生下時体重一二〇〇グラム以下の極小未熟児に対しては、これを生育し、かつ脳性麻痺等の合併症を防止するため、ある程度経常的な酸素療法が不可欠である。保育器内の酸素濃度については、成書に従い、上限をRLFが発生しないとされる四〇パーセントとし、下限については、保育器の操作により、器内の酸素濃度が下がり易く、これによって、児に低酸素症を招来するおそれがあり、これによる低酸素性頭蓋内出血という極めて危険な合併症の発生を防止するため、十分な酸素を与える必要があり、三〇パーセント以下になることがないような量の酸素を与えることとし、流量は、児の状態に応じて児に対する処置のため保育器を操作する頻度や、前認定のとおり、保育器の使用説明書に従った投与量では、望む酸素濃度が得られないことなどを考慮して、右濃度を得るに必要な量を決定して指示していた。また、右のような一般に肺が未熟でガス交換機能が十分でないことが多い極小未熟児に貧血がみられると、赤血球が少ないため、酸素が体内に十分運ばれず、脳性麻痺に陥いることが憂慮されるので、鉄剤投与又は輸血によって貧血の状態を改善することを要するほか、低酸素症の診断は、児のチアノーゼや顔色をもとに行い、チアノーゼについては、全身性のものが最も警戒を要するが、極小未熟児の場合、四肢末端のものも厳重な注意を要する。チアノーゼがみられ、低酸素症又は無酸素症が起きるおそれがあるときは、四〇パーセント以上の濃度で酸素を投与したこともある。

(二)  被告病院においては、岸野医師が被告病院に勤務を始めた昭和三九年から同四五年ころまでの間、生下時体重二五〇〇グラム以下の未熟児は、分娩総数の一割より下回る三〇〇ないし四〇〇例が取り扱われ、うち、同一二〇〇グラム以下の極小未熟児が約二〇例、更に、同一〇〇〇グラム以下のものは五ないし八例あり、原告直子は、生下時体重一〇〇〇グラム以下で成育し得た二例目であった。被告病院においては、生下児体重一〇〇〇グラム以下の児の死亡率が極めて高く、また、死亡を免れても、脳性麻痺の発生率が非常に高い事実を児の両親等に説明するのを常例とし、原告直子についても、その親に対し、右事情が説明された。

3  過失について

右1において認定のとおり、未熟児の保育に際し、酸素を投与するについては、保育器内の酸素濃度は、通常四〇パーセント以下に保ち、チアノーゼがみられるなど必要がある場合は、これより高い濃度で酸素を投与すべきであるとする主張が一般に是認されており、原告直子に対する前記第一項認定の酸素投与に関する諸事実及び右2において認定した事実から、原告直子に投与されていた酸素の濃度は、昭和四五年四月一〇日及び同一四日を除き、約三〇パーセントから四〇パーセントまでであったと推認すべく、右推認を妨げる事実はなく、右四月一〇日においては、四四パーセントの濃度が記録された後投与量が減じられ、濃度が下げられており、同一四日は、努力呼吸がみられ、また貧血症状が認められたため、医師の指示により四六パーセントの濃度の酸素が投与されたのであり、また、右1及び2において認定のとおり、極小未熟児は、肺のガス交換機能の未熟さから生ずる低酸素症、低酸素性脳出血等の重篤な合併症に陥り易く、被告病院の岸野医師は、これを防ぐため、原告直子に対し、三〇パーセント以上の濃度で酸素を投与することとしていたというのであるから、被告病院において、原告直子に対して酸素を投与したこと及び同原告に投与された酸素の濃度は、右一般に承認されていた療法にもかなうものであるというべく、この点に関して、被告病院の医師に過失はない。

また、右1において認定のとおり、原告直子出生当時、未熟児に対して酸素投与を開始したのちは、酸素投与による本症発生の危険にかんがみ、酸素投与があまり長期にわたることがないよう、必要がなくなれば、徐々に減量しつつ、速やかに酸素投与を中止すべきであり、チアノーゼや呼吸困難の有無により、中止時期を決すべきであるとする主張が一般に承認されていたのであるから、医師は、未熟児の状態を観察し、未熟児につき、チアノーゼや呼吸困難がなくなるなど、酸素濃度を減少し、又は酸素投与を中止すべき事情が生じれば、必要な措置を採るべき注意義務があったと解すべきであるが、死亡率も高いとされる未熟児の保育の特質にかんがみ、未熟児の未熟性の程度等具体的事情により、これに対する酸素投与に関して採るべき措置及びその時期を決定するについては、第一次的には、保育に当たる医師の裁量が尊重されるべきものと解されるところ、前記第一項及び右2において認定のとおり、原告直子は、出生時の体重九八〇グラム、在胎二八週のいわゆる極小未熟児であり、同原告以前に被告病院で取り扱われた出生時体重一〇〇〇グラム以下の児は五ないし八例で、わずかに一例が生育したのみであり、原告直子には、被告病院入院当初、呼吸異常及びチアノーゼは認められなかったものの、同原告は、体重が出生時においても極度に小さい上、入院後八三五グラムにまで下がり、再び、出生時とほぼ同量の体重にまで増加するのに約一ヶ月を要しており、出生後四月一七日まで二ヶ月余もカテーテルにより哺乳をされる状態であり、また、軽いものも含め、チアノーゼがみられたことも何回かあり、四月一日ころからは、強い貧血症状を呈し、鉄剤投与や二度にわたる骨髄輸血を受けており、出生後ほぼ二ヶ月を経た四月一四日には、努力呼吸がみられたため酸素濃度も一時上げられ(同日の記録では四六パーセント)、また、酸素投与期間中、投与量は、右四月一四日を除き、徐々に減少されており、四月二一日には、医師より投与量を毎分二リットルから一・五リットルに減少すべき旨の指示がなされたが、減量によって口唇部にチアノーゼがみられたため、毎分二リットルの投与が続行されることとなったほか、酸素投与量及び濃度に関する被告病院の医師の指示は前記第一項認定のとおり、原告直子の症状に合せて具体的になされていると見ることができ、貧血症状もほぼ改善され、全身状態もほぼ良くなった五月一日に至り、酸素投与が中止されるに至ったのであるから、被告病院医師による原告直子に対する酸素投与の措置は、その期間及び方法において、原告直子の保育に当たる医師の裁量の範囲内の適切なものであったというべく、右医師の措置に過失があったものということができないことが明らかである。

四  眼底検査に関する過失

次に、原告らは、原告直子に対し、眼底検査がなされなかったため、原告直子が本症に罹患していることを発見できず、したがって、同原告が本症に対する適切な治療を受けられず、失明するに至ったのであって、右眼底検査がなされなかったことにつき、被告病院の医師に過失があると主張し、被告は、眼底検査をしなかったことは認めるものの、これについては、何ら過失はないと主張するので検討する。

1  《証拠省略》によれば次のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(一)  眼底検査は、児が本症に罹患しているかどうか、及び罹患している場合には、その進行状況をは握した上で、これに対して採るべき治療処置等を決定するために必要となるが、本症に対する治療法は、大別して薬物療法と物理的療法とが提唱されている。

薬物療法としては、古くは、ビタミンE投与法が唱えられたが、のち、否定され、その後、我が国では、昭和三九年ころから、本症の活動期の可逆性のある時期に発見して、適当な酸素供給、ACTH(副腎機能の亢進を誘発させ、副腎皮質ホルモンを分泌させる効果があるもの)投与、副腎皮質(ステロイド)ホルモン投与、又はこれと蛋白同化ホルモン剤との併用によって、治療効果をあげた旨の報告がなされた。しかし、本症は、前記認定のとおり、自然寛解する率が非常に高いため、原告直子の出生当時においても、右各治療方法の有効性は、必ずしも確認されておらず、殊に、右のうち、ステロイドホルモンについては、その効果が確認されないだけでなく、児への全身的な副作用があるため、その使用につき、否定的な考えが多かった。また、本症は、瘢痕期に至ると治療法がないとされている点では、異説をみない。

物理的療法としては、昭和四二年、永田誠医師によって開発発表された光凝固法と、同四七年、山下由紀子医師によって報告された冷凍凝固法とがあり、両者は、網膜を固定する手段が異なるほか、原理的には同じである。

光凝固法は、本症に罹患した未熟児の網膜の疾患部位に光を照射して焼き、網膜を光照射時における状態で固定し、症状の進行を停止させる治療法であり、本症進行過程の途中、遅くも活動期Ⅲ期前半までに実施すれば有効であるが網膜剥離期にまで至った場合には効果がないとされる。本症は、前述のように自然治癒率が高く、光凝固法実施により、児の網膜に永久的な瘢痕を残すことによる後遺症の有無については、将来に課題が残されていたため、光凝固法発表当時においては、その効果及びこれを実施すべき時期について、その後の追試的研究にまつべき点が多かった。

光凝固法について、その臨床例が発表された経緯を追うと、先ず、永田誠医師が昭和四二年秋の第二一回臨床眼科学会において、また、同四三年四月号「臨床眼科」(甲第二九、乙第五一号証)及び同年一〇月号「眼科」(甲第三二号証)に、同四二年の出生児に同法を実施して良好な結果を得た二例について報告し、次いで、同四五年五月号「臨床眼科」(甲第三九、乙第五四号証)に、同四四年に実施した四例について報告し、更に、同年一一月号「臨床眼科」(甲第四〇、乙第八七号証)において、同法について記述し、その後、同四六年以降になって、永田医師以外の医師による同法実施の結果や山下由紀子医師による冷凍凝固法を実施した例の報告がなされた。

(二)  本症の発見のための眼底検査実施の必要性は、本症の研究について先駆的努力をしてきた植村恭夫医師により、昭和三九年ころから、同医師執筆に係る論文等において、主張されて来ており、同医師を眼科医長として迎えた国立小児病院においては、同四〇年一一月の発足時から、未熟児の定期的な眼底検査が実施され、右論文等を契機として、天理よろず相談所病院の永田誠医師は、同四一年八月、同病院発足後間もないころから未熟児の眼底検査を実施し、塚原勇医師は関西医科大学病院において、須田栄二医師は青森県立病院において、いずれも同四二年から、これを実施していた。しかしながら、前記のとおり、我が国においては、本症は、過去の疾患と考えられていたため、一般的には、これに対する関心が低い上、未熟児を保育する産科医師の間では、全身状態の良くない未熟児に対し、右検査を実施すると、未熟児に悪影響があるかもしれないという懸念から、昭和四二年ころにおいては、眼科の協力を得て本症の発生を防ぐ必要性があることは、一般的な認識となってはいなかった。また、検査対象が未熟児であるため、成人とは異なり、眼底を検査すること自体に少なからぬ困難が伴い、未熟な眼底に生ずることが多い透光体の混濁状態(ヘイジイメディア)のために眼底検査を行うことが物理的に不可能となる場合もあり、本症の瘢痕期の所見は、他の眼疾患と似ており、早い時期から眼底所見の推移を継続的に検査していなければ本症を識別するのが困難である上、的確な眼底検査の実施は、熟練した本症研究者の指導の下において、数多くの未熟児の眼底を検査する経験を持って始めて可能であるとされているが、眼科を標ぼうする医師が少なく、しかも、大部分が開業医であるため、右当時、的確に未熟児の眼底を検査することができる医師は、本症の先駆的な研究が行われていた病院、一部の大学病院などに、ごく限られた人数がいたにすぎない。

(三)  原告直子が出生した昭和四五年二月ころにおいても、植村医師の主張に係る未熟児の生後三週間ないし一ヶ月後から三ヶ月ころまでの間の週一回及びその後六ヶ月ころまでの間の三週ないし一ヶ月に一回の定期的眼底検査は、右医師及びその協力者らの勤務する本症研究の先駆的病院、本症に興味を持つ医師の勤務する一部の病院及び未熟児室を有する一部の大学病院等において、本症の症状の変化等本症の経過を正確には握することを目的として行われていたにすぎず、右認定のとおり、原告直子の出生当時、効果が承認された薬物療法はなく、また、光凝固法は、提唱者の手になる臨床実験結果が発表されていたのみで、眼科を標ぼうする医師にとってすら、一般に承認された治療法というにはほど遠い状態にあり、更に、本症の自然治癒の割合が非常に高いためもあって、右のような定期的眼底検査は、治療方法及びその実施の時期を決定することを目的として行われていたものではなかった。

右のような次第で、植村医師らの啓蒙的努力にもかかわらず、右(二)において認定した眼底検査実施に伴う困難、眼底検査を行うことができる医師が十分に得られる状態に至っていなかったことなどの事情と相まって、原告直子の出生当時においては、定期的眼底検査は、未だ、眼科界の常例として行われるまでには到底至っていなかった。

なお、植村恭夫医師等の論文中には、比較的早い時期に、既に眼底検査の必要性が一般的に承認されるに至ったかの如き記述がみられるが、右は、具体的事実の裏付けを伴うものでなく、原告直子の出生当時においても、到底その段階にまで至っていなかったことは、乙第一〇五号証中の植村医師の供述により明らかである。

2(一)  ところで、医師による診療行為に関する過失の有無は、当該診療行為が、その行為当時、医学界において一般に承認され、臨床的に実践されている医療の水準を満たすものであるかどうかによって判断すべきものと解するのが相当である。したがって、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる高度の注意義務を要求されるのはやむを得ないところで、過去に修得した医療知識及び技術のみに基づいて診療行為をなすことは許されず、日々進歩する医学に遅れることがないように、自己の標ぼうする診療科目に関し、発行される医学雑誌、医学書の購読及び学会への参加を通じて、新しい知識及び技術の吸収に努めるべきであり、これを怠って、診療行為がなされた当時の標ぼうする診療科目の医療水準を満たすべき診療行為をしない場合には、過失があると判断されてもやむを得ないというべきである。しかしながら、自己の標ぼうする診療科目であっても、診療実施当時、一部の先駆的な研究者等により知られ、かつ、実施されているが、医学界において、効果及び安全性が一般に承認されておらず、したがって、一般的に実施されるに至っていない診療行為については、後に、それが医学界において一般に承認され、一般的に実施されるに至るものであっても、右のような効果及び安全性が確認されていない段階でその実施を要求することは、医師に人体実験を強要するに等しく、医師は、右段階においては、右のような先駆的診療行為をなすべき法律上の義務を負わず、これを実施しなくとも、法律上、過失責任を問われることはないと解するのが相当である。

(二)  右1において認定のとおり、原告直子の出生及び被告病院入院当時、本症の治療方法のうち、後に、最も有力視され、有効な唯一の方法ともされる光凝固法は、考案者である永田医師により、臨床実験例が初めて発表されたのみで、同医師及び同法による本症治療に関心を有する医師らにより追試が行われている段階にあり、右方法が眼科界において一般に承認され、臨床として確立した治療法となっていたということができないことは明らかであるから、右当時においては、被告病院の眼科医師は、光凝固法を実施すべきかどうか及びその時期を決定することを目的として眼底検査を行うべき義務を負っていたものと解することは到底できないというべきである。

しかしながら、薬物療法については、右1において認定のとおり、原告直子の出生当時、その効果が一般に承認されていた方法はなかったものの、本症の初期の段階では、酸素投与を中止したり、ステロイドホルモンを投与することによって治癒したという例が報告されていたので、定期的眼底検査の実施により、原告直子の本症罹患を早期に発見し、右方法を実施していれば、原告直子が本症による失明を免れ得た可能性も否定できないというべきであるから、右のような方法を実施する前提として、被告病院の眼科医師が原告直子に対し、定期的な眼底検査を実施すべき義務を負っていたかどうかを検討するに、右1において認定したとおり、定期的眼底検査の必要性は、昭和三九年ころから、本症の先駆的研究を行って来た植村恭夫医師により強調され、永田誠、塚原勇その他の本症に興味を抱いた医師の関係する病院においては、定期的な眼底検査が実施されるに至ったものの、本症が前記のとおり過去の疾患と考えられ、本症に対する関心が一般的には低かったこと、本症は自然治癒する割合が高いこと、本症の確実な治療法が発見されていなかったこと、眼底検査実施による未熟児の全身状態への悪影響に対する懸念から、産科医師の賛同を得がたかったこと、未熟児の眼底検査の実施は、眼底が未熟なために困難が伴うこと、未熟児の眼底を的確に検査し、本症罹患の有無及び段階を判断することが技術的に困難を伴うこと及び眼底検査を行うことができる医師が得難いことなどのため、原告直子の出生及び被告病院への入院当時、定期的眼底検査は、未だ、眼科界に一般的に承認され、実施されるまでには至っていなかったのであって、被告病院の産科医師にはもちろん、眼科医師にも、原告直子に対し、定期的眼底検査を実施しなかったことにつき、過失はなかったものというべきである。

五  療養上の指導義務違反について

最後に、原告らは、被告病院の担当医師が原告直子の退院の際、医師法二三条に基づき、同原告について、退院後、定期的に眼底検査を受けるよう指導しなかったことに過失があると主張し、被告病院の担当医師が原告直子の退院時に、両親の原告俊夫及び同智恵子に対して原告直子に眼底検査を受けさせるように指導しなかったことは当事者間に争いがないのであるが、医師は、診療に当たった患者が現在罹患し、又は将来罹患することを予見した病気について、医師法二三条に基づき、その療養の方法等を指導すべき義務を負い、診療行為につき過失がないため、患者が罹患していること、又は将来罹患することを予見することが期待できない病気については、その療養方法等を指導すべき義務を負わないと解するのが相当であり、本件においては、前記説示のとおり、被告病院の医師には、原告直子に対しなされた酸素投与及び眼底検査が実施されなかったことについては、過失がなかったのであるから、患者又はその家族等から求められたとしても、右指導をなすべき義務はないというべきであり、右義務があることを前提とする原告らの主張は理由がないというほかない。

六  結び

以上のとおり、本症の素因が児の網膜の未熟性にある以上、未熟児の出生がなくならない限り、本症による失明はなくならないと考えられるから、過失がある者に失明に寄与した応分の損害賠償を命ずるのみでは、失明した児童が社会生活を営むのに伴う困難を除くことにはならないのであり、失明児に対する別途の恒久的な対策が望まれるところではあるが、本件においては、原告直子が失明するに至るについて、被告病院の医師には、何ら過失がないことは、右各説示のとおりであるから、原告らの被告に対する請求は、その余の点に触れるまでもなく理由がなく、棄却を免れないところであり、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山城政正 裁判官 江見弘武 岡光民雄)

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